明後日行超特急奇譚

 車体ががくんと大きく揺れて、私は目を覚ました。荷物を置いた手がしびれている。窓
の外は真っ暗で何も見えない。もう、どれくらいまで来たのか。そう思ってふと気づく。
私は、一体どこに行こうとしているのか。否、そもそも、この列車は一体何なのか。何時
この列車に私は乗ったのだろうか。この列車はどこに行こうとしているのか。
 脳にまだ霞がかかっているような感覚でこれが本当に現実なのか、もしかしたらまだ夢
の世界に居るのかしらん。そんな気分だった。
 まあ、いつかそれは思い出すだろう。だが、そんなことより、のどが酷く渇いて仕方が
なかった。確か、この隣の車両に食堂車があったはずだ。霞の中からかすかに感じる記憶
を呼び覚まし、食堂車でコーヒーでも飲もうかと木製のいすの肩に手をかけ立ち上がる。
 右手は未だしびれているが、左手はすでにしびれから開放されている。ふらふらする頭
を左手で支えながら食堂車へと向かう。食堂車の入り口には小さな男が居た。
「今日はここでパーティをやっている筈だから、貴方は入れないよ。知っているだろう」
 知っていた。そうだった。入ることは出来ないのだ。
「とっとと、自分の席にお帰りよ」ねずみのような声で男は言う。ねずみのような体型に
良く見りゃねずみ顔。本当はこいつはねずみなんじゃないか。なあねずみよ。
「しかし、のどが渇いているんです。水でいいから一杯いただけませんか」
「駄目だね」取り付く島も無い。と、扉がギイと開いて猫が顔をのぞかせる。にゃあ。良
く見れば猫の面だった。「入れておやりよ。可哀想じゃあないかい。あんたには自愛の精
神て言うものが無いんだねえ」「姉さんがいいというなら私は構いませんがねえ」
 どんな世界でもねずみは猫に弱いらしい。
 ねずみはチョロチョロと何処かへ消えていった。扉の中に私は吸い込まれる。
 扉の中は思ったより開けていた。豪華なシャンデリアが飾られていて、いくつもあるテ
ーブルの上には豪華な料理が盛られていた。後ろを振り返ったが猫は居なかった。きっと
雑多な人ごみの中にまぎれてしまったのだろう。雑多な人々は皆、仮面をかぶっていた。
 そうだ、のどが渇いているのだ。
 食堂車をうろついていると、ピエロのお面の男が言う。
「君は、仮面をかぶっては居ないんだねえ。楽しんでいるかい」
 機械のような「音」で、ピエロは僕に話しかける。本当にこの「音」はお面の向こうか
ら出ているのだろうか。「いえ、僕は何か飲む物が無いかと思って」僕がそういいかける
とピエロはつまらなそうに「今を楽しもう。今を楽しむべきだ。今は今しか無いんだ」と、
奇妙な音を発しながら雑多にまぎれた。ああ、それにしてものどが渇く。
「ワインをお持ちいたしました」後ろから声をかけられ、びくりとする。木彫りの面をか
ぶった駅員の格好をした男が、銀色のトレイに白ワインと赤ワインの入ったグラスを乗せ
て立っていた。「いかが、なさいますか」丁寧だがどこか挑戦的な発音で言う。
「いただきます」そういうと、僕はワインを一気に飲み干した。のどが潤う。同時に酔い
が回ってきたようだ。少しくらくらしながら、僕は近くの席に座り込んだ。
「どうだい、楽しんでいるようだね」隣の席にピエロが座っていた。相変わらず、機械の
「音」だった。「ええ、まあ」僕は、節目がちに言った。だって、僕はこのパーティに、
参加していい人間ではないのだから。楽しむ権利は僕には無い。そうだ、そろそろ席に帰
らなくては。そう自分に言い聞かせると、すっくと立ち上がった。
「まだ、いいじゃあないですか」ピエロの反対側から声がした。猫だった。「大丈夫、貴
方も招待されていたじゃあないですか」ココロを見透かされているようだった。
「僕が、招待されているですって」くらり、現実がゆらぐ。「ええ、アタイが言うんだか
ら間違いはありませんよ」妙な節回しで猫が鳴く。ああ、此処は何処だろう。
「すこうしばかり、お話をしていってくださいましよ」猫が鳴く。逆らえよう筈も無い。
ピエロは薄く笑っている。いや、もちろん仮面なのでその下でピエロがどういう表情なの
かはわかるはずは無いのだ。無いのだが、しかし。矢張りピエロは笑っているのだ。
「しかし」僕は、席に座りはなし始めた。「僕は今、記憶がどうやら欠落してしまってい
るようなのです。話すようなことなど、何もありはしません」そう、目覚めてから大分経
つというのに未だに、この列車が何処に行くのかそれすら思い出すことが出来ない。
「記憶なんて、過去なんてどうでもいいじゃあ無いですか。今を生きればそれでいい」
 ピエロは音を発する。猫はにゃあと顔をなでている。僕は額の汗をぬぐう。
「しかし、それは、だけど」言葉が出ない。「今を、楽しもう」ピエロはいつの間にか、
ワインを手にしている。仮面をずらし、ワインを飲み干す。無精ひげの生えた口が見えた。
「そういえば、この列車はどこに行くんでしたっけ」僕は聞いてみた。
 ピエロは興味ないね。といった感じでそっぽを向いている。猫がにゃあと鳴いた。
「あんたァ。そんなことも忘れちまったのかい」
 見えはしないのだが、何処となく寂しげな表情になったような気がした。
「この電車は……に行くんだァよ」猫はポツリとつぶやいた、
 何だ、今、なんと言った。この電車は、……明後日に行くとかいったような気がした。
「明後日」僕はいぶかしげな表情で聞いてみた。明後日とは一体どういった了見なのだ。
「ああ、明後日さ」答えたのは猫じゃなくて「音」だった。「おいアンタ。その意味さえ
も忘れちまったんじゃあないだろうねえ」ピエロはあきれたように言う。
 僕は無言でうなづく。
 その刹那、場の空気が一変した。ピエロが何かを僕に言おうとする前に、パーティ会場
の中心はすでに僕ではなくなっていたのだ。老婆の面をかぶった誰かが、パーティ会場の
中心で叫んでいた。その声は、まるで老婆のようだった。きっと中身も老婆なのだろう。
「ああああああ。貴方がた聞いてください。聞いていますか。届いていますか。私の声が。
私はムニムニという生き物を買っていました。その頃は私も若くて美しくて、毎晩男をと
っかえひっかえ。私はムニムニのことも忘れ、毎晩ギムレットを呑んでいました。ある朝
気づけばムニムニが居ません。若き美しき私は感嘆しました。ムニムニは無二無二という
くらいですから他に変わりは居ないんです。毎晩タンポポの茎を追った時に出てくる、白
い液を飲んで生き続けている幻の生物なんです。ムニムニがいなくては私の人生なんてこ
れッぽっちの価値もありはしません。唯の男を悦ばせるだけの穴に成り下がっちまいます。
だから私は必死でムニムニを探したんです。目はくぼみ、皺は深く刻み込まれ、髪は白く
なり、爪は割れ、歯は抜け、生理は止まり、乳は垂れ、それでも私は探し続けているので
す。でも、本当はわかっているんです。そんな生き物はもとからいなかったってことに。
私の人生なんてそんなものだったってことに。だから、だから、わたしはこのパーティに
参加したのです。あんたたちだってそうだろう。……ああ、聞いてくださって、本当にあ
りがとうございます」
 老婆は一息に言うと、ひざから崩れ落ちた。小柄な老婆だったので、しゃがんでしまう
と人ごみにまぎれてもう見えなくなった。老婆の声に呼応するように、歓声が上がり、今
度は狗の面をかぶった、声からして多分中年の男が立ち上がって演説を始めた。
「お前ラ●●どもきイてイるのか。俺はこの歳まで足立区の工場で毎日毎日ネジを選別す
る仕事をしていた。苦悩がわかるか。お前ラ●●どもには判らないだろうが、おれは、本
当はそんなベルトコンベアで流される歯車のような仕事をするために生まれてきたわけで
はないんだ。毎日足立区の工場で、百本のネジを手にとっては、軽いものが無いかを見分
ける仕事だ。お前ラ●●にもできる簡単な仕事だ。判るか。毎日汗をたらしながら、百本
選定して10円の仕事だ。俺は、今は未ださなぎでいつか蝶になる。今は未だ途中だ。未
だお前ラ●●とは違う。そう思い続けていた。だけど、最近脳を掠める。俺も本当は●●
何じゃあないかと。もしかしたら、今の俺はさなぎなんじゃなくて、本当はすでに蝶にな
ってしまっているのではないかと。だからこの電車に乗った。お前らだってそうだろう」
 狗は吠えた。目からは涙が流れていた。本当にアレは――面なのか。
「わかったかい。明後日の意味が」ワイングラスを傾けながら言う。
「ここに居る奴らはみんな腑抜けだ。まあ、私も人のことは言えないけどねえ。みんな、
明日に希望が持てなくなった人間さあ。明日に希望が持てないから、明後日に希望を持と
うとする。退屈な明日なんてすっ飛ばしてさ。夢のような明後日が。君の前には」
 恍惚の表情を浮かべながら、ピエロは悶える。体を曲げながら、僕を見つめる。
「君だってそうなんだろう。だから」笑みだ。機械の声は笑みの中から生まれる。きっと、
このピエロの仮面の下は、僕を嘲る様な笑顔で埋め尽くされているに違いない。
「違う」僕は否定した。明後日が夢見る未来だと、なぜ言い切れる。明日を見ない人間が
明後日を見ようだなどと「そんなことは、アタイたちだって、あの老婆だって、狗だって
わかっているんですよォ」今まで何処に居たのか足元で猫が鳴いた。
「でもあんただって、逃げたじゃあないか。だから、もっとも卑怯な■■なんて方法で」
 彼女の声が一部不鮮明に聞こえた。ノイズが混じっている。彼女は、僕の足元に絡み付
いてくる。ゆっくりと、這い上がってくる。水。口元に彼女の吐息。口を彼女にふさがれ、
息が出来なくなる。泡。体は溶けていく。溶けて、分子になる。光。彼女の舌が、口の中
に絡み付いてくる。冷たい感触が口の中に、体の中に。渦。水。泡。光。渦。
 月が水面に映える。手を伸ばして、つかもうとするが、泡と渦で光が濁る。
 そして僕は……。無に帰る。
 ガタン。列車が揺れて僕は目が覚める。
 口元が濡れている。体が濡れている。全部、彼女の仕業なんだろうか。明日を見れない
人間が明後日に行くための列車……。本当に、僕はそんなものに乗っているんだろうか。
「やっと、目覚めたようだね」ピエロだった。道化師は僕の口元をタオルでこすった。
「なるほど、まだ思い出せないらしい。これは重症だ」音は僕を責める。「責めているわ
けではないよ。別にね。それならそれでも良いんじゃあないかと。ごらん、君の面だ」
 ピエロは面を差し出した。白い面だった。表情も無く、何者でもない。つるっつるの、
真っ白い面だった。
「被ってごらん。君もこっち側にこれるよ。君のような、自分をも偽っている人間には、
何も無い、こういった面がお似合いだって、猫が用意したんだ」
 猫の姿が脳裏にかすむ。脳裏の猫は、こっちにおいでと手招きしている。まるでまねき
猫だ。猫が呼ぶから近づいていくが、猫は勝手気ままに逃げていってしまう。逃げた猫は
また、まねく。近づく、逃げる、まねく。近づく、逃げる、まねく。
「僕は、」仮面を手に取った。「貴方たちとは」ひんやりと冷たい。「違う」仮面を二つ
に割った。思ったよりもそれは脆く、割れたそれはシュワシュワと音を立てて崩れる。
「バカな餓鬼だ。すばらしい未来が待っているって言うのに」ピエロは溶けていく破片を
拾い上げると、口の中に頬張った。口の中でそれはねずみに変わり、僕にがなる。
「君はルールを破った。もう、この列車にはいられない」ねずみはピエロの口から這い出
すといやらしいニヤニヤ笑いで僕を攻め立てる。「猫の姉貴。だからアタシは言ったんで
すよ。こんな男をアンタまあ、中に入れるなんて、やっぱり正気の沙汰じゃなかったんだ」
 ねずみはピストルの弾になった。ぐにゃり。ぐらり。ピストルを撃つのは猫。残念だね
ェと言いながら、ねずみは僕に向かって発射される。頬をかすめ、血がにじむ。
「次ははずさないでくださいよ」天井裏からねずみの声がする。一匹ではない。木製の天
井がきしみ、その影にいる数百、数万と言うねずみのすがたを映し出す。
 バラバラバラバラバラバラ。耐え切れなくなった天井はたわみ、木目からねずみが落ち
てくる。このままでは、やばい。そう感じ僕は逃げ出す。ドアに手をかけ、隣の車両へ逃
げ出す。逃がしはしないよ。そういいながら猫とその手下の数万のねずみの弾は、僕の心
臓をめがけて追いかけてくる。閉めたドアはあっさり破壊される。
 2両目、3両目……一体この列車は何処まで続くのだ。足が痛くなる。ひざが震える。
 もう駄目だ、そう思って8両目のドアに手をかける。息遣いが荒くなっている。心臓が
飛び出そうだ。ぐい。ドアを開ける。だが、その先には何も無い。
 広がるのは深遠の闇。ただ、線路が無限の果てへと続いているようだ。枕木が次々と闇
の中に吸い込めれていく。ゴウンゴウン。逃げ道は、ない。
「おいつめたよおゥ」猫と数万匹のねずみが車両を取り囲む。「アンタじゃあ、そこから
飛び降りる勇気なんかありゃあ、しないだろう」ガシャン。猫が蹄鉄を引く。
「どうする、死ぬかい。それとも……」あごで闇を示す。「あるいは、」左手を掲げる。
白い面だ。「今からでも間に合うよ。明日なんて。その深い闇に飛び出すようなものさ。
怖くて、暗くて、そして、だから、アンタは逃げた。又、逃げれば良いじゃないか」
 ココロが揺らめく。両腕を差し出し、白い面を手に取る。吸い込まれるような白。これ
を被れば、僕はずっとここにいて良いのだ。
 それも悪くは無いのかもしれないな。明日など、来ないほうが。すばらしい明後日――
 顔に白い面がゆっくりと近づいてくる。、まるで、ゴムでつながっているような感覚。
 チリチリとしろい光が僕の顔を照らす。心地よい感情だ。顔がだんだん白んできて、
僕は、仮面の住人になった。

  ……違う。そうじゃない。それでは、又、同じことじゃないか。
  仮面を被って生きる人生なんて……。
  何度同じことを繰り返したら気が済むんだ。
  猫は、彼女だ。あの仮面の下には、彼女が。
  飛び出すんだ。さあ、仮面を捨てて。

 これは、ピエロの音……。いや、違う。僕の声だ。ピエロは、僕だったんだ。
 僕は仮面を引っぺがすと、世界を見た。相変わらず未来は暗いままだったけど、今まで
より列車は意外と狭く見えた。猫は、仮面ではなく猫だった。恐れることは無い。ねずみ
はただの臆病なねずみだ。ぼくは薄笑いを浮かべながら、首をぐるりと回した。そして、
十字架を作るように両手を開げ、猫たちを見据えながら、闇に向かって、後ろ向きに倒れ
こんだ。怖かったけど、とても良い気持ちだった。

 そして、僕は病院のベッドの中、目を覚ました。
 永い夢から目を覚ました。

降車