復活日記
written by YOLY
生まれ変わって、虫になって。

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 2005 /4 /16
・昭和
 偶さか、本を読んだというような記述をしている日記を見かける。
 然し、本を読むという行為はそんなに珍しいことなのだろうかと思案する。
 例えば、今日も糞尿を垂れ流したというような日記は誰も書かないし、
 お昼には白米を食べましたなどと書いても誰も驚きはしない。
 日記に書くということはそれが事件でありその日特別にあったことなのだから書くわけだ。
 そう、だからこそ本を読んだなどと書く人間は常日頃から本を読んでいないのではあるまいか。

 だが、それの見方を変えてみたらどうだろうか。
 例えば、標高150mのビルの屋上から放尿したとしたらこれは事件だし、
 満員電車の中で脱糞したらこれはこれで。
 白米を食べても誰も驚きはしないが、蚊の目玉を食べたといえばそれは驚きに値するって物であります。
 しかし、仮に感動したとしても、メケロッテゥイーヌを食べたといわれても、
 そのメケロッテゥイーヌが何者なのか、果たしてどういう味だったのかを事細かに説明しなければ、
 メケロッテゥイーヌを食べていない人間にはわかりえませんと。
 つまり、本を読んだと書く場合、その本の面白みを何とか相手に伝えなければならないなあと。
 相変わらずクドクドとわかりにくいことを書いておりますが、
 今日は本を読んだという話を書こうという、そういう枕であります。

 仕事でディスプレイを一日中見続ける仕事をしておりまして、
 眼球は過度に疲労しているわけです。
 特に今などは忙しい時期ですので、
 飯を食っているときと糞をしているとき寝ているときに通勤中以外はモニタを見ている毎日。
 そんな中に活字など読みたくないと思う時候なのですが、
 一回りして読みたい本が増えてきやがった。
 目の前にあるディスプレイで、アマゾンとか言うサイトに行ってクリックするだけでものが買えちゃう。
 本屋に行く暇も無いわけで、アマゾンで購入することしきり多し。
 始めはそれでもDVDなどを買っていたわけですが、高いうえに見る暇が無い。
 本ならば電車の中で読めるだろうとこういうわけで、
 気に入っている映画の原作本を買いあさり読みふける毎日。

 といっても別に白米を食べるような感覚で本を読み捨てているので、
 そんなことを書いても面白くはないかなという毎日。
 別に本が面白くないわけではなく、面白いということも含めてすでに白米なのだ。
 睡眠は快楽だが毎日それを記さないのと同じことだ。

 しかし、面白すぎるというわけではなく、
 まあ、映画は気に入ったんで読んでみようと読んだ本が、
 いまさらながら村上龍。
 昭和歌謡大全集という本なのだが、これが面白い。
 面白いのは日常で、本の内容も何度も見たDVDの内容とほぼ同じである。
 まあ、書く必要は無いといえば無いのであるが、
 ここまで書いてしまったのでもう少し書かせていただく。
 あらすじは、まあ、少年たちとおばさんたちの殺し合いの話であり、
 特に理由も無くおばさんを殺した少年が、
 そのおばさんの友人に殺される。
 それでその少年の友人たちはおばさんたちを殺そうとする―という話。
 あらすじなど書いても面白くも無いものだし、
 本というものは筋が面白いのではなく、筋をどう表現するかが面白いのであって。
 そんなことを言ってしまえば、口伝で伝えられる古典が90%を占めている落語なんていう文化は、
 等の昔にあらすじは書籍化され高座に行かずとも筋は知れる仕組みになっているというのに、
 いまだに廃れずに残っているというのは物事の本質というのは筋かもしれないが、それは本当の本質ではないということなのだ。
 まあいい、兎に角筋をここでいくら説明しようとも、
 本で読む面白さにはかなわないのであり、たとえ誰かにとって、
 それが本で読む面白さよりも超えたと思えるような筋の表し方だったとしても、
 それは別に超えたわけでもなんでもなくて、形が違うものを比較しているだけで、
 ボクシングと将棋どちらを見ながら、ピッツアマルガリータを食べるのがおいしいか。
 そういった頓珍漢な質問をしているようなものである。

 閑話休題。
 本の面白さは読めば解ると書いてしまえばならば日記に書く必要は無い。
 始めに書いておきながら読めば解るとは何事かとお思いの方も居るでしょうが、
 本が面白いということと今日の日記は全くの無関係である。

 この村上龍という人の文体が大槻ケンヂの文体に似ているなあと。
 いや、もちろん逆で、大槻ケンヂが村上龍の文体に似ているのでしょうが。
 こう、一文が長いところとか、関係の無い話題で登場人物の様相をあらわすところとか、
 擬音がセリフや地の文にべったりと張り付いているところなんかが、
 似ているなあと思ったわけです。

 ならばはじめからそう書けばよかったのだが、
 なぜだかはよくわからないがこんな長文に。
 珍妙な気持ちだ。

 そういえば、オペラ座の怪人も元は小説だったな。
 今度読んでみようか。
 オペラ座の怪人といえば、ファントム。
 ファントムといえば―



 曲名:夜歩く
 収録CD:SISTER STRAWBERRY・80年代の筋肉少女帯(インストゥルメンタル)
 寸感:三柴理筋少最後の曲。
    脱退ライブの最後にこれを引いた様子が80年代の筋肉少女帯に収録。
    これがなぜインストなのかといえば、オーケンがラジオの収録のため、
    ライブの途中で帰っちゃったから。
    筋少らしからぬ、詩的世界の曲。
    SISTER STRAWBERRYのなかで浮いているが、しかし、これぞSISTER STRAWBERRY。
    この曲は昭和に収録されたんだなあ…(無理やりタイトルと絡めてみる)。



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